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ジビーフのわくわく定期便、その前にジビーフとは

ジビーフとの出会いは西川奈緒子さんからの手紙でした。

私は、新千歳空港から車で20~30分位のところに位置する長沼町で、稲作農家の三女として生まれました。生まれながらにして、土や植物など自然を身近に感じながら育ちました。こうした環境で育ったせいか、いつしか「自然と向き合う農業」に魅力を感じ始めていました。昭和57年に父がこの地で牧場を始めたのは、当時、米の減反政策で稲作農家の将来性にかげりが見え始める一方で、牛肉消費量が増加の一途を辿っていたときでした。

牧場を始める前に、国内をはじめ、カナダ等も視察しました。その結果、国内で主に行われていた和牛飼育の方法では、生産コストがかかり過ぎることと、広大な土地がある北海道の地形を生かさない手はない!と「自然林間放牧による肉牛生産」の方法を選びました。そして、放牧飼育でも十分な増体が期待できる品種として、和牛ではなく、アバディン・アンガス種とヘレフォード種をカナダから輸入しました。長沼町から190キロも離れた場所、太平洋に突き出た襟裳岬にほど近い、日高山脈南部に位置する様似町の新富地区を肉牛の生産現場に選んだ理由は、広大な土地200ヘクタールが安価で手に入ったことに加え、襟裳沖からの潮風が牧草に適度な塩分を与えてくれること、その涼しい潮風のおかげで牛にストレスを与えるアブなどの害虫も比較的少ないこと等でした。

こうして、父が牧場を始めたのは、私が小学校6年生のときでした。父は長沼での稲作生産を続けながらの牧場経営だったので、牧場には住み込みの牧場長を雇っていました。私は夏休みや冬休み等の長期休暇には牧場へ行き、牛の移動の手伝いや、治療を見ていました。北海道は当時も今も、農家間の距離が遠いうえに、獣医一人あたりが診なければならない牛の頭数が多いため、生後間もない子牛の下痢を見つけてすぐに獣医を呼んでも、来るのは半日以上経ってからというのが珍しくありませんでした。そのため子牛はどんどん弱り、死んでしまったり、治ったとしても、その後の生育は良くありませんでした。そんな現実を目の当たりにして、いつしか、この牧場を継ごうと考えていた私は獣医になることを決意します。

江別市野幌にある酪農学園大学の獣医学科に進学した私は、5年生から入る研究室(獣医衛生学研究室)で、一学年上の夫、雄三と出会います。夫は長崎県平戸の出身で、広大な北海道での牧場経営にも夢を抱いていました。意気投合した私たちは、夢を現実にすべく、私の卒業を待って、夫は長崎での共済勤めを辞め、平成8年3月に結婚し、私たちの牧場経営が始まります。

牧場設立当初は、まだ牛肉は自由化されておらず、サシの入っていないアンガスやヘレフォードでも十分に採算の取れる値段でホクレンに販売できていました。しかし、1991年(平成3年)4月、遂に牛肉の自由化が始まり、外国から入ってくる安い牛肉と品種も重なり、価格は一気に半値まで下がりました。牧場設立10年目のことです。

当時、大学3年生だった私に父は「牧場経営を続けるのは厳しいから、小動物の獣医になったらどうだ?」と持ち掛けました。金銭的な苦労などしたことがない私は、事の重大性を理解できませんでした。「私の目標は獣医になることではない、牧場をやるために獣医になるのだ!様似の牧場が無くなったら、私は他の牧場へお嫁に行く!」ときっぱり言いました。それを聞いた父は、娘の夢を叶えるべく、なんとか牧場経営を続けられる道を模索し、今まで通り広大な土地を利用しつつ、輸入牛との肉質的な差をつけるため、アンガスと黒毛和種F1の生産に切り替えました。

私たちが引き継いだ時には、牛の頭数は800頭にまで増産され、既に、東京のチェーン展開をしているスーパーと契約を結んでの販売をしていました。

牧場があるここ様似町新富地区は、様似の街から15キロ、標高200メートルです。昔は200件程あったという民家は、私たちが就農した平成8年には、我が家の他に、90歳間近の一人暮らしのおじいちゃんと、これまた90歳間近の一人暮らしのおばあちゃんのたった二件!テレビはNHKの衛星放送2局しか映りませんでした(今は、ケーブルを引っ張ってもらって、ちゃんと地デジです!)現在でも「携帯は圏外」、インターネットも光どころかISDNすら無理な場所です。

当時は、夫と私、90歳間近の老人二人、人口4人に対して、牛800頭、野生動物は、熊、鹿、キツネ、タヌキ、ヘビ、イモリにヤモリ、数えきれないほどのカラスや野鳥。そのせいなのか、就農した翌年に生まれた長男の雄喜(現在、愛農高校の2年生、養豚部)は、人間の(?)言葉を話せるようになったのは、心配するほど遅かったのですが、一日の大半を野外で過ごしていた雄喜の周りには、いつも野鳥が集まり、何やら大きな声で会話をしていました。雄喜の手に野鳥がとまったりもしていました。

雄喜くんは愛農高校養豚部を卒業して帯広畜産大学へ。今年からジビーフの里で豚を飼い始めました。

そんなのどかな環境とは裏腹に、私たちの牧場経営は過酷なものでした。放牧地で次々と子牛が生まれる春先は、産気づいた母牛のお尻にカラスがとまり、生まれくる子牛を待ち構え、目をつっついたり、緩んだ母牛の陰部をつっついたり、膣を引っ張ったり、カラスに引っ張られた膣を更にキツネが引っ張り出すという、特に温厚で陰部の緩みがちなヘレフォードは標的となりました。また、一度だけ母牛が熊に捕えられ、ふきの葉で隠されていたこともあります(熊は大きな獲物は一度で食べないで、人の入れないような急な斜面などに獲物を移し、木の葉などで隠して置いて少しづつ食べるそうです)

また、特に子育てが上手なアンガスは、外的から子牛を守るために人目につかない林の中で出産し、
一週間ほど子牛を隠しておきます。一週間経って出てきた子牛は走り回り、耳標を付けるために捕まえるのも一苦労、やっと捕まえたら、母牛が子を守ろうとして人間にかかってくるのです。命がけの耳標付けです。

こんな感じで人目につかないようにひっそりと産み落とすのです。

運よく見つけて耳票を付ける奈緒子さんとご主人の雄三さん、雄喜くん。そりゃ痛いでしょう。見ているだけで痛みが伝わります。だって耳にパチンと穴をあけるんですからね。大変な仕事です。

耳票をつけ終った後はこの通り(ちなみに生まれた翌日です)

死んでるのかと思うほどビクとも動かなかった子牛。耳票をつけるとものすごい悲鳴を上げ、その声を聞いた母牛がどこからか現れ、子牛は群れの中へ・・・母牛を心配そうに子牛の後を追う。自然界でしかみられない本能の光景です。

冬期間の母牛のエネルギー源に、サイレージ用のデントコーンを植えれば、植えた直後の種はカラスが、芽がでたら鹿が、実がなったら熊が夜通し食べにくる。バラ線や電気牧柵は、直しても鹿が通り、切れたり緩んだりした柵から牛が脱走して、道路に出ることもしばしば。

当時の生産牛は、通年林間放牧をしているアンガスの母牛に、和牛の種を人口授精で付け、生まれた子牛(F1)は6~8ヶ月令まで母牛と一緒に放牧してたっぷりと母乳を飲ませ、その後、母牛と離して、12ヶ月令まで放牧スペースのある牛舎で牧草主体に、徐々に濃厚飼料を与えながら育成し、12ヶ月令からは肥育期間に入り25ヶ月令前後で出荷するというものでした。

格付けをご存じのない方でも、「A5」という言葉は聞いたとこがあるかも知れません。テレビのグルメ番組で「A5の肉を使ってます」なんてテロップをよくみかけます。簡単に説明すると横軸の1~5は脂の量です。つまりサシが多ければ数字が上がります。縦軸のA~Cは肉量です。一頭の牛から肉がたくさんとれる量です。サシが多くて歩留りが良い肉と覚えておくと簡単です。歩留りがよくないとBに落とされます。

肉質は、B-2かB-3。食味的には、程よく脂がのっていて、あっさりしているのに「コク」がある。このコクは、放牧地に豊富に自生している笹やヨモギなどの野草を食べて育っていることと、現在も世界中で最も多く食べられているアンガスによる特性によるものではないかと考えられます。牛肉が苦手な方からも「ここの肉なら食べられる」と高評価を戴いておりました。

しかし、口蹄疫やBSEの発生、牛肉偽装など次々起こる問題で、国内の牛肉消費量は半減し、それに伴い枝肉価格も下落する一方でした。

スーパーでも店頭に並べた牛肉が売れず、肉の色が黒ずんで破棄しなければならないリスクを考えると、少しでも色の薄い肉、つまり運動させていない赤身の少なく「サシ」が細かくたくさん入った肉を置かざるをえなかったのです。当然、走り回って、たっぷりと運動している牛の肉は、筋肉中に色素成分であるミオグロビンが出るので、色は濃く、黒っぽくなるのです。牛肉消費の落ち込みと共に、和牛の市場価格もどんどん下がっていったので、販売側としては和牛を仕入れない手はなかったのです。

当時、販売契約を交わしていた東京のチェーン展開しているスーパーも例外ではなく、既にブランド名を付けて「安全安心な自然放牧牛」として販売していた私たちに、和牛に切り替えるか、もっと「サシ」を入れてくれなければ売れないと言ってきました。

もし、濃厚飼料でしか太れないように改良された和牛に切り替えたら、放牧飼育は不可能。運動していない母牛は、難産が多く、人の手で引っ張らなければならないほど。生まれた子牛はすぐに母牛から離し、人口ミルクで育てながら濃厚飼料に慣らされる。育成期間は良質な牧草をたっぷり与え胃袋を大きくする。胃袋が大きく、食い込みが良くなった牛を肥育するのは、一頭当たりのスペースが極力小さい牛舎で、濃厚飼料を食べる以外は、できるだけ牛が動けないようすることで、筋肉の発達を抑え、小さな筋肉と筋肉の間に脂肪が付くという、医学的には考えられない現象が「サシ」なのです。

サシは血統で入りますが、ビタミンをコントロールして意図的に入れることもあります。過度のビタミンA欠乏に陥った肥育には枝肉中に瑕疵(特に筋水腫、ズル)や内臓疾患(特に肝臓疾患)になることもあります。こうなると僕はいくらビジネスとはいえ反対です。

瑕疵の表示についてはア・イ・ウ・エ・オ・カと表示され、ア→シミ(多発性筋出血)、イ→ズル(水腫)、ウ→シコリ(筋炎)、エ→アタリ(外傷)、オ→カツジョ(割除)、カ→その他、に区分されます。カ(その他)については、背割不良、骨折、放血不良、異臭、異色のあるもの及び著しく汚染されているもの。またはア〜オに該当しないものと定義されています。ちなみに写真の肉はアタリ(外傷)です。アイスクリームのアタリは嬉しいですが肉のアタリはガッカリしかないです。

自分で自分の体を支えるのがやっと、一定期間ビタミンを切らしたり、与えたりの操作をすることでサシを入れる。そういった、牛の生態系とはまったくかけ離れた飼育方法で牛肉を生産することに、どうしても抵抗があった私は、なんとかいままでの飼いかたでサシを入れられないかと試みたのが、「アンガスと黒毛のF1クロス」の生産でした。アンガスの血が25%、黒毛和種の血が75%、単純に考えたら和牛に近いのだからこれまでよりも「サシ」が入るはず。それに加え、放牧に適しているアンガスの血も25%入っているのだから、今まで通り母牛は通年放牧、子牛も6~8ヶ月令までは母牛と放牧できるだろうと考えたのです。種付けしてから3年、遂に世界初の「アン黒F1クロス」の肉の誕生です。

肉質は、B-2~B-3、まれにB-4。肉質にはばらつきがあり、期待していたほど「サシ」は増えなかったどころか、飼育期間を延ばしたにもかかわらず、枝肉重量は減り、結果的に収入はマイナスで、更に他では類を見ないこの牛は、市場価値を付けてもらえず、枝肉価格はホルスタインと黒毛のF1よりも安値での取引しかしてもらえませんでした。レストランやホテルなどにも売り込みをし、使ってもらえたとしてもロースばかり。正味肉重量のわずか15%程度しかないロース、つまりステーキばかりを欲しがり、他の部位を自分で直売してみても限界がありました。

和牛に基準を置いた濃厚飼料の価格は上がる一方で、生産コストはかさみ、しかしそれに見合った採算がとれる価格では販売できない。経営的にも、精神的にも限界でした。このまま牧場を続けられない状況になった私たちは、500頭いた牛をどんどん減らし、生活費を確保するために夫は牧場から60キロ離れた十勝の育成牧場で単身赴任をしながら専属獣医として働くことを選択しました。今から2年前のことです。三人いる息子たちは成長し、長男の雄喜がこれから高校というときでした。これからどんどん子供たちにお金がかかることもあり、私も獣医の免許をいかして働きにいくべきものなのかとも考えていたのですが、気がかりなことがありました。

それは、「この牧場の土地がどうなってしまうのか?」どんどん減っていく牛を見て、世間は牧場を辞めるのだと思い、聞きつけた何件かの外国の企業が「牧場を売ってくれ」と電話をかけてきました。もし、売ってしまったら、200ヘクタールあるこの土地は「遺伝子組み換え用の作物の種子の生産現場」にでもなってしまうのか?国の大切な財産であるこの土地が、外国の手にわたり、日本の不利になることは絶対に避けなければならないと思いました。

そしてもう一つ、農家の使命でもある「国民の食料を作ることで、国民を、国を守らなければならない」という信念を持った生産者が「安全」を重要視したとき、消費者の評価は薄く、経営は困難となる。自らの利益は欲さず、消費者の健康のため、自然環境のために尽力する生産者が報われない矛盾。そんな現実に屈しなければならない自分への怒りでした。

そんな時に、長男の雄喜が選んだ高校が「愛農学園農業高校」でした。限りなく便利とスピードを追求し続けるこの時代に、携帯電話もゲームも禁止、全寮制で「自給自足」の生活。生徒は勉学に励みながら、牛、豚、鶏を飼い、完全無農薬・有機栽培で米、野菜、果樹を育て、自らが調理し食べる。「人間の本当の生き様」をそこに見た気がしました。

何年前になるだろうか、、、友人たちを誘って愛農高校へ行き、生徒や先生たちと校内自給率70%の給食をいただきました。「正しい食について」は人それぞれの考え方があり、押し付けるものでもありません。僕の扱う牛肉には物語がありますが、それはおいしさというゴールがあってこそだと思っています。このときの僕は、たくさんの人に知ってもらおうとは思っていなくて、せめて僕の身近にいる人や友人たちに、日本にはこういう高校もあるんだ、どう、捨てたもんじゃないだろうと、それだけでした。実際、この体験を境に参加者の一人、床美幸さんは、IT業界から食業界へ転身し、MISO POTA KYOTOというすばらしい事業を展開しています。僕も愛飲者の一人です。

2015年9月、メゼババ高山シェフ、ラッセ村山シェフ、マッキー牧元さんと。

アマゾン@太田さんの特別授業

そして、現代っ子にはとても過酷ともいえるこの生活を、自ら志願して入学してくる若干15~16歳の子供たちが、50年間途切れることなく居てくれたことに感動と希望をもらいました。「
日本の将来、捨てたもんじゃない!」この若き英雄たちが卒業後、信念を貫いて生きられるようにするのも、私たち大人の使命であるならば、やはりここで諦めるわけにはいかない!そう思いました。

それまでどうしても手放せなかった純粋アンガスの母牛8頭と、純粋なアンガスの種牛1頭だけがまだ残っていたのと、高騰を続ける濃厚飼料を与えても採算が取れる見込みが無かったこともあり、今度は、中途半端な肉ではなく、本交によって授精し、生まれた子牛は好きな時に好きなだけ母乳を飲み、つまり、本来、草だけで生きる「野生の牛」を作ってみることにしました。勿論、輸入肉とは違って、濃いに決まっている!硬さは?=硬いに決まっている!

しかし、野生の鹿が「食肉」として評価されるようになったのだから、「国産の野生の牛」だって悪くないはず!

この度、やっと22ケ月令と23ケ月令の雌牛を出荷できる運びとなりました。そんなはじめての無謀ともいえる私の挑戦せずには終われなかった今回の牛肉を食肉として可能性があるのかないのか?ぜひ貴重なご意見をお聞かせ願えればと思います。

今回肉になってくれた牛さんです。

こちらは肉になる前に脱走してしまった牛さんです。その後、熊の餌食になったのかと心配していたのですが、いまは群れに戻って暮らしているそうです。

この投稿は2013年7月27日のものです。

これが僕に送られてきた最初のジビーフです。当初はジビーフという名前もなく野生牛と呼んでいました。このときの格付けはC-1でした。

あれから6年、いろんなことがありました。料理人あってのジビーフであり、僕自身はジビーフにたくさんのことを教わりました。テレビの影響で気にしてくれる方は多いのですが、実際は物珍しさだけです。僕のなかではビジネスとは程遠い牛肉という位置づけなので、長く付き合える料理人であり志の高い料理人であり、なによりもお金のにおいがしない料理人に使ってほしいという願いがあります。そのためにはストーリーありきではいけませんし、おいしさだけでもいけません。もちろん話題先行で一人歩きさせることがいちばんよくないのも分かっています。

水分が多く枯らしてみたり熟成させてみたり、いろんなことを試しました。そしてようやく、なんとなくですが、これぐらいかなという感覚がつかめつつあります。味に関しては個体差が・・なんてつまらない言い訳はしたくないので、いつも100%であり続けられるように仕上げています。なによりも、一般の方にもようやく販売できる体制が整いました。

とはいっても一か月に一頭の出荷です。ずっと支えてくれている料理人の方々が最優先です。料理人の方が使わない部位もありますので、限定ではありますが、ジビーフのわくわく定期便を販売することになりました。まずは19名様限定で募集したいと思います。ただいまページを作成中につきでき次第、告知させていただきます。

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