近江牛だからおいしいとは限らない
私が幼い頃から慣れ親しんできた近江牛。だからこそあえて言わせてもらうと、近江牛だからおいしいということは絶対にありません。悲しいかな懸命に手当てしてもおいしくなってくれない肉もあります。私は個性として割り切れても消費者にとっては味の評価がすべてです。価格以上に満足できればお褒めいただき以下なら不満足な結果になります。立場を料理人に置き換えても同じことです。個性で割り切れても、目の前でお客様に顔をしかめられれば、これは個性ですからなんてことは通用しないのです。私たちは日々たくさんの肉を触っているから個性ですまされても、お客様にとっての評価はおいしいかおいしくないか、それだけなんです。
10年くらい前になるかな、高校の同級生でもある近江牛の生産者とセリ場で枝肉を見ていた時、サシの多い肉について彼は「脳で食べる」という表現をしたのです。あぁ、なるほどなと思ったのですが、これからは脳で食べる時代がくるのかと漠然と思ったことが、ここ数年まさしく、牛が育った背景やストーリーも加味されるようになり、環境まで評価の対象になっているように感じています。まさしく同級生の彼が言っていた「脳で食べる時代」です。
ワイン同様に牛も「自然/ナチュラル」がクローズアップされはじめています。つまりは放牧であり、より自然に近い環境で牛を飼っていることに価値を見出そうとしているのです。私は生産者じゃないから中途半端に牛を語るのは失礼な話だが、それでも自然とはほど遠い環境下で牛を飼っている場面に出くわすこともあります。それでも生産者は「自然」という言葉を口にする。なんかその時点ですべてが薄っぺらく感じてしまうのです。
私の仕事は肉を流通させることではありません。枝肉や骨を抜いた部分肉を流通させるのが問屋の仕事で、それを仕入れて精肉にするのが肉屋の仕事です。じゃー私の仕事は後者になるのかと言えば少し違います。仕入れた枝肉を”手当て”しておいしくするのが私の肉屋としての仕事です。ものすごく地味であまり評価されることもなく、そこをクローズアップするメディアもありません。熟成肉がブームになったとき、たくさんの取材依頼をいただきましたが、なんか違うなぁと感じていました。本質を分かっていないというか、悲しいことですが仕方がないのかも知れません。
下記は某シェフのインタビュー記事ですが、こいうシェフがいるから私のような人間も少しは浮かばれるのかなと、じつはめちゃくちゃ嬉しくて何度も読み直しました(笑)
「必要充分な“手当て”をすることで、初めて優れた食材となるのだということを、『サカエヤ』さんと知り合って、本当の意味で初めて理解しました。もちろんその後の物流の水準の高さも食材のクオリティを担っています。そうして、納めてもらうことで、我々は料理をすることができるのですから」
つい、生産者だけに目を向けがちだが、生き物が食材となり、料理人にわたり、調理をされ、一品の料理となって、消費者の口に入るには、実に多くの人の手を経ているのだ。
「だからこそ、料理人である私が行うべきは、それぞれの肉の個性を尊重し、生かした料理に仕上げるということです。ジビーフであれば、まさに、その肉にどうやって合わせて調理をしていくかと熟慮すること。この香り、この肉質は、どこにもないオンリーワンなのですから。それを料理に仕立て上げるというのは胸おどる楽しみであり、やりがいです」
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