食となる命を育てること、いただくこと

後藤牧場は、琵琶湖の干拓地「大中町」にあります。
この地で近江牛の生産を始められた後藤喜代一さんご夫婦は、大中の湖干拓地の初代入植者です。

後藤さんは、大中の湖干拓地でお米を作ったり、ホルスタインを育てたりしていたのですが、昭和63年(1988年)からは、「滋賀県生まれ滋賀県育ち」の近江牛を育てたいと思い、北海道の忠類村(現在の幕別町)から「なかのり号」という雌牛を導入しました。

平成1年(1990年)6月7日、なかのり号は3歳で初めて子を生み、その後も毎年生み続けて、平成20年(2008年)3月27日に19番目の子牛を産みました。
牛の寿命が20歳ぐらいということを考えると、22歳のなかのり号はすごく元気な牛だといえます。
後藤さんと共に生きてきたなかのり号は、本来ならば廃牛となるのですが、後藤さんは、「なかのり号」にとって、どうしてあげることが"はなむけ"になるのかを考えました。


なかのり号にとっての"はなむけ"とは

牛肉になる牛は、生まれて3年ほどで食肉センターに出荷されます。
通常、牛は雌牛で未経産(子供を産んでいない牛)が価値があるといわれ高値で取引されます。子供を産んだ経産牛は、脂が黄色くて肉質が硬く、粗末に扱われることが現状です。しかも、「なかのり号」は19産もしているので、このままだと廃牛扱いは免れません。

後藤さんは、「なかのり号」を美味しい牛肉になるように、再飼育することにしました。獣医さんからアドバイスをいただき、飼料を特別にブレンドして、懸命に育てました。

再飼育にあたって、たくさんの方々が協力してくれました。畜産農家からDr.コトーとして慕われている臨床獣医師の松本先生もその1人です。

牛にとっての幸せとは、おいしく料理してたくさんの人に食べてもらうことです。後藤さんは「なかのり号」を再飼育して、たくさんの人においしく食べてもらうことこそが"はなむけ"になると考えたのです。


松本先生と子供たち

2009年3月8日(日)、出荷の日を向かえました。
きたやま南山のお客様や子供たち、そして関係者の方々が大勢かけつけてくれて賑やかな出荷の日となりました。

私たちは、みんな他者の命をいただいて生きているということを実感したくて企画した行事でしたが、後藤さんから子どもたちに伝えられたメッセージは、「勉強なんてでけんでもええ。元気に生きてくれることが一番なんや。いい子にならんでもええ、人にやさしくできる子になってくれたらええ。」ということでした。

出荷に立ち会ってくださった、獣医師の松本先生は、子供たちにこんなことをお話してくださいました。

人も牛も命あるものはみんなだれかを幸せにするために生きています。牛さんは人の役にたち、人を幸せにできるのならばと、喜んでお肉になってくれるんだよ。

じつは牛さんって、お肉になって喜んでもらうとうれしいんだよ。おじさんはこの仕事21年やってるけど、牛さんも病気をします。そうすると出荷する前に、お肉にならずに死んでいく子たちもいます。そういう子たちは悔しいといって死んでいきます。牛さんだって死ぬときに良いお肉になって人の役にたちたいんだよ。人を幸せにできるのならばと、お肉になってくれるんだよ。
だから、お肉を食べるときは、美味しかったと言ってあげてね。


牛と話せるって噂はホントでした


子供たちが大人になっても思い出してほしい今日のこと

なかのり号の絵を描く子供たち

旅立ちのとき

「なかのり号」が旅立つ時がやってきました。

子供たちの「なかのりさ〜ん」というかけ声とともに「なかのり」は一鳴きして、みなに別れを告げるかのように旅立ちました。

子供たちの笑顔での見送りが印象的でした。
今日の子供たちはきっと心やさしく、たくましく育ってくれることでしょう。


見送った喜びと安堵

22年のほとんどを牧草のサイレージで育った「なかのり号」は、我々の予想を遥かに超える、すばらしい旨味のある見事なお肉になってくれました。

これは奇跡としか言いようがないぐらいのすばらしい肉質に感動し、感激し、そしてたずさわっていただいた多くの方々に感謝いたします。